[1216-201604] 意識して「思考する」時間、「からっぽ」になる時間。日々なんとなくせわしない私とあなたへ。最近そんな時間が取れていますか?

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効率的に生きたい、無駄なく生きたい、などと考えている訳ではないのですが、夜寝る前に一日を振り返ってみると、結局今日一日何をやったのか分からないことがよくあります。

それなりに色々とやることはやった。仕事も一通り今日の分は終えたはず。けれど・・。

何となく頭が重い。別に鬱ではありません。ただ、やらなければいけないのに意識的に後回しにしてしまっていることから、やりたくない訳ではなくて単純に忘れていたことまで。思い出して沈んだり、理由は分からないけれどモヤモヤしたり。

もう少し頭の中がスッキリすれば。思考が渦巻いて、けれど何かを考えているわけでもまとめているわけでもなく、きちんと立ち止まることさえしていない。手には常にスマホがあり、ちょっと時間が出来ると何か情報を求めている。

こうした悩みは今に始まったことではありませんし、今まで様々な本を読んできて、話を聴いてきて、どうやら人類の永遠の悩みのようにも思えます。解決策なんてないのかもしれません。それくらい人の頭の中というのは謎です。

ただ、それでも何かしらきっかけや取っかかりを掴みたい、と思うのも日々生きていて感じます。

そこで、ここ最近手に取った二冊の本がそれぞれに全く違うことを言っているように見えて、求めているもの、大切なものは同じだな、と感じたので、ご紹介したいと思います。

1216-201604_My Favorite Books

どちらもKindle版、書籍版ともに普通に出ていますので、興味のある方は手に取ってみてください。

松浦弥太郎「考え方のコツ」(朝日文庫)

考える習慣とは、思考の時間を確保することです。純粋に、考えるためだけの時間です。人によって仕事は違い、いろいろなタスクがあります。考える内容もそれぞれでしょう。それでも、考える時間が不要な仕事はありません。

僕は最低でも一日二回、思考の時間をスケジュールに組み込んでいます。

松浦弥太郎さんはこの著書の中で、午前中に一時間、午後に状況に応じて一時間、「思考の時間」を組み込まれているそうです。またその際の考え方のコツや、その大切さについて書かれています。

人間、考えているようで、ちゃんと考えていることはほとんどありません。頭の中にわく様々な思考が刺激となって沸いてくるだけで、それらの中から意識的に何かを捉え、それについてじっくり考える時間を取る、ということは、無意識に出来ることではありません。それくらい考える、というのは簡単なようでいて難しい。

私がこの本を初めて手に取ったのはもう2年近く前ですが、当時松浦弥太郎さんの著作と考え方に大変共感していまして、是非自分の中にも取り入れたい、と思いました。

けれど、決して忙しい日々を送っている訳でもないと思うのですが(世の中にはもっと秒刻み、分刻みのスケジュールの人は幾らでもいます。また、身近でも妻の方がよほど忙しい。)それでも結局未だにきちんと毎日のスケジュールの中で、意識してまとまった時間を思考のための時間として取れずにいます。それくらい、意識して考える、ということは難しいと思います。

アンディ・プディコム「からっぽ! – 10分間瞑想が忙しいココロを楽にする」(辰巳出版)

意識して「思考の時間」を取ることと同じく、日々の生活の中で難しいのが「全く何もしない、何も考えない時間」を取ることです。最近取り入れ始めた10分間瞑想のきっかけになった本です。

この本では、瞑想のメリットとともに、一般的に誤解されている瞑想のやり方やイメージについても分かりやすく説明されています。

私たちが心の中で起きていることから目をそらす手段がまだ足りないかのように、現代社会には携帯電話につながった電子メールやソーシャルメディアがあります。私たちはまさに24時間休みなく気をそらされ続けています。それらはたしかに便利かもしれませんが、私たちはいまや、ほんの少しでも退屈を感じた瞬間にオンラインに接続して頭をいっぱいにしてしまいます。

最近、NHKの「新日本風土記」を毎週楽しみにしています。先日は「永平寺」でした。

その中で、この永平寺で各地の寺からたどり着いた雲水(修行僧)たちが、数年後、この寺での修行を終えて、また日常に戻っていきます。地元の街の人によると、彼ら雲水の訪れた時と、山(永平寺)から降りてきた時の顔つきが全く違うそうです。

只ひたすら坐禅することで「悟り」や「禅」の真理を追い求めるのですが、その時ふと思ったことがありました。

「永平寺での修行の一時一時が厳しくも素晴らしい修行の時間だけれど、雲水たちにとっての本当の修行はこの後現実社会と繋がった後にこそあるんだろうなぁ」

深い雪と山に覆われた、下界からは閉ざされた空間である永平寺での修行は確かに過酷でしょうが、そこにスマホやテレビといった俗世間のものはありません。しかしこれから戻っていく場所は、そうした社会で悩みを抱え、救いを求めている人たちと環境に囲まれた現代社会です。そこでは余程の何かがない限り、あっという間にそうした情報や欲望の洪水に飲み込まれてしまいます(そうならないための修行でもあるのでしょうが)

あなたが最後に、テレビにも音楽にも本にも雑誌にも、食べ物にも飲み物にも、電話にもコンピュータにも、友だちにも家族にも一切邪魔されたり気をとられたりせず、考えなくてはならないことも答えを出さなくてはならないこともなく、ただじっと座っていたのはいつのことですか?

そうした中で、「からっぽ」な時間、何も考えない時間、というのを生活の中で意識的に取る、ということが、無意識に生きていてはどれだけ難しく、また大切なことかを改めて感じます。

アプローチの方法は多種多様。大切なことは、流れる時間の中で、きちんと意識して立ち止まる時間を取ること。

昔、クオーツ時計が出た時に、今まで流れるように時を刻んでいた機械式時計の秒針の動き(スイープ運針)に対してステップ運針(一秒ごとにカチッカチッと秒針が動く)の魅力を「時は刻むもの」と表現しました。

しばらくして機械式時計が流行し始めた時、ステップ運針に対抗して改めて(こちらもよく見れば細かく刻んではいるのですが)そのスイープ運針を「時は流れるもの」と表現しました。

本来の主旨とは外れているかもしれませんが、クオーツ時計が全盛になった時期と、また機械式が盛り返してきた時期の人々の働き方を眺めてみると、面白いな、と思います。

時を流れるものと見て、その流れの中でゆったり過ごすのか。もしくはそうした流れる時間の中に一つ一つしっかり何かを刻んでいくのか。

ふと思うのは、どちらであれ、意図せず流されてしまうのであれば、その中に刻むように意識して過ごす時間が大切になってきますし、刻み疲れてしまっているのであれば、時には流されてみる時間も大切だと言うことです。

流れている時間と大量の情報の中で、刻むように意識して思考する時間を取る。
刻むように日々余裕なく生きてきたり、常に何かに晒されている中で、流れるように何も考えないからっぽの時間を取る。

ただ、結局はどちらも意識して取ろうとしない限り、なかなか日常に組み入れることが難しい時間でもあります。

意識して「思考する」時間、「からっぽ」になる時間。最近そんな時間が取れていますか?

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